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【3325】ads.FM「三重の映画に恋をして」〜VOL.34「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」(1935年) 事務局 田中 忍
メール tnk@orange.ocn.ne.jp 
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当委員会会長の田中忍が、ads.FMで三重県ゆかりの映画について話を
しています。コーナータイトルは「三重の映画に恋をして」、略して「みえこい」です。
第34回目は次のとおり3月21日(土)の放送です。本放送は、インターネット
でもお聴きいただくことができます。
詳しくは、ads.FMのホームページでご確認ください。
http://www.catv-ads.jp/fm/
放送日時:3月21日(土)午前11時20分から午前11時36分(予定)まで
放送局:コミュニティFM『ads.FM』
番組名:weekend mix
ナビゲーター:北山ヒロトさん
紹介映画:「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」(山中貞雄監督、1935年)
          28歳という若さで戦病死した山中貞雄監督の傑作時代劇です。
     津市一身田寺内町で、撮影(一部)されました。
放送内容は、放送後にこのページに掲載します。      

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投稿日 2020/3/20 (Fri) 17:17:52
更新日 2020/3/21 (Sat) 8:44:40
 

【3326】Re:ads.FM「三重の映画に恋をして」〜VOL.34「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」(1935年) 事務局 田中忍
メール tnk@orange.ocn.ne.jp 
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放送内容

丹下左膳という人物は、右目に大きな刀傷を持ち、右腕のないニヒルな剣士という設定が、原作にはあります。しかし、この映画では、右目に大きな刀傷を持ち、右腕のない人物というところまでは原作と同じですが、矢場(弓を射て遊ぶ所)での用心棒であり、そこの女将のヒモという設定で、人情あるどこかのおじちゃんという感じに描かれています。出来上がった脚本を原作者側に見せると、全くイメージが違うので、映画化を止めて欲しいという騒動まで起こりました。結局、原作者名を出さない。タイトル『丹下左膳』の後ろに『餘話』を付けることで決着し、映画製作になりました。

本作は、当時、25、6歳だった若い山中貞雄が監督をしました。丹下左膳の映画は、これまでも作られていて、いわゆるチャンバラに重きを置いたアクション系が主で「これぞ丹下左膳!」と言わせる作品になっていました。それを受けての映画化で、山中監督は「自分も同じような映画は作りたくない」と考え、人情あるどこかのおじちゃんにしてしまったのです。

山中貞雄は1909年の京都生まれです。2019年度は山中貞雄監督の生誕110年にあたります。小さい頃から映画が大好きで、16歳で学校を卒業すると、京都にある先輩の映画製作会社をたずね、映画界に入りました。最初から映画監督という道ではなくて、彼は、ガリ切りをさせられました。ガリ切りと言うのは、脚本家が自筆で書いた原稿を、スタッフや俳優に台本として渡すために、「ガリ版印刷」をするための作業です。「ロウ」が引かれている紙に鉄筆でガリガリと傷をつけて、その部分にインクが入り印刷できる、という仕組みです。印刷会社に依頼すると時間もお金もかかったからだと思います。私たちの生活で、原稿が手書きからタイプライターに変わっていったのは、1970年代の終わりごろじゃないでしょうかね。…山中は、このガリ切りで脚本を学びました。先輩脚本家の脚本のうまさや欠点を、自分のものとしました。映画製作が盛んだった戦前には、先輩の脚本が完成できず、後半の部分を山中が書いたことがありました。その内容がよくできていて、彼の才能が注目されるというきっかけにもなったことがあったのです。

もちろん、脚本のうまさは、山中がそれまでたくさん映画を見ていたので、人に感動を与える話の作り方も上手くなっていたのだと思われます。この丹下左膳も、従来のイメージを全く変えてしまい、観客からは遠い存在に思えた時代劇ヒーローが私たちの近所に住んでいるという親近感を与えます。あるシーンで女将から、「これしておいてね」と言われて、すぐ「いやだいやだ」と左膳は言うのですが、次のシーンでは女将に頼まれたことをやっている左膳がいて、観客を笑わせます。他にもいろいろと笑えシーンがあるのですが、この映画が持つ温かみは、父親を殺された子供を丹下左膳と女将が自分の子供のように育てる部分だと思います。血のつながらない人間が家族のように暮らすシーンに、人間の温かさを感じさせますね。

山中は、日中戦争に召集され、1938年9月17日に28歳という若さで中国で戦病死しています。5年半という短い監督生活で26本の映画を監督しました。ただ、残念なことにフィルムは紛失や戦争火災等により焼失し、現存しているのはこの『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』、『河内山宗俊』、『人情紙風船』の3作品のみとなっています。才能豊かな若手監督・山中の死は、当時の映画人に深い衝撃を与えました。仲間の監督らは山中を惜しみ、亡くなった翌年から山中忌という偲ぶ集いを開きました。1970年代に一時中断されましたが、1984年に再開。昨年も命日にあたる9月17日に山中忌が開かれました。

私が知る限り、命日にこのような偲ぶ集いが開かれているのは、山中監督のほかに小津安二郎監督がいます。小津監督は、山中監督と親交がありましてね。1941年9月17日、山中家の菩提寺である京都市上京区の大雄寺境内に建立された「山中貞雄之碑」の碑文は山中監督の友人たちが推敲し、小津安二郎監督が書いています。

ところで、本作の一部の撮影は津市一身田寺内町で行われています。丹下左膳が壺を探しに出かけるシーンとか、家出した子どもを探すシーンが、ここで撮影されました。

一身田寺内町は津市の北部、一身田町にある高田本山専修寺を中心に、15世紀の終わり頃から16世紀の中頃にかけてつくられた自治都市のことで、その多くは周囲に濠などがめぐらされています。この町は、昭和初期から戦後間もない頃にかけて、お寺や町並みを利用して、時代劇映画の撮影が頻繁に行われました。一身田は、戦災を免れていましたので、お寺が多く残っていたり、長い土塀や大きな商家の蔵が立ち並び、撮影条件として適していました。またJR一身田駅があり京都の撮影所から2時間程で来ることができたためと言われています。当然、当時は京都での映画撮影が中心でしたが、京都は観光客が多かったため、人通りも少ない一身田で撮影がされたのです。また撮影隊が常宿としていた旅館があり(現在は廃業)、そこのおかみさんが面倒見のいい方でね、撮影に使う小物類を調達してくれたり、川に飛び込んだ俳優にお腹をこわしてはいけないと温かい梅湯を作って飲ましてあげたりと、今でいうフィルムコミッション的な役割を果たしてみえたことも大きな要因だったと思います。一身田寺内町での撮影時、町の人たちが、映画の撮影風景を写真に撮っていました。その写真が掲載された『一身田寺内町シネマップ』が作成され、今も配布されていますし、また毎年11月に開かれる『寺内町まつり』では、なつかしの映画会と題して、寺内町で撮影されたいろいろな映画を上映しています。

一身田寺内町の方々は、町の歴史を大事にされてみえると感じます。ここを訪れるとわかりますが、今も黒い土塀やお寺などの歴史的建造物がありますし、国宝指定された高田本山専修寺へのお参りをされ、町を散策される観光客の姿も多いのです。中心部には寺内町の館という施設があり、寺内町の歴史や案内をしてくれます。一身田に行くとね、「ほっとするに一身田」という看板があり、皆さん親切にしてくださいます。本作も「ほっとしますね」。

本作の音楽は西悟郎が担当しています。映画に合わせたコミカルなタッチの曲とともに、クラシックや童謡をアレンジした音楽も作曲しています。サントラ盤が、残念ながら手に入りませんでした。そこで、この映画で印象深かった子どものシーンでよく流れた「通りゃんせ」の童謡をお聞きいただきます。

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投稿日 2020/3/22 (Sun) 9:33:54
更新日 2020/3/22 (Sun) 9:33:54
 


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