TOP>三重映画さんぽ>竹内浩三〜「映画」を志した若者〜 吉村 英夫
陸軍兵士の頃の竹内浩三 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや……

 1945年、23歳の竹内浩三はフィリピンで戦死した。彼の遺した詩編が多くの人の目にふれたのは、1966年に松阪市が編纂して三一新書として全国に流布した「松阪市戦没兵士の手紙集 ふるさとの風や」の冒頭に掲載されてからであろう。本書の「あとがき」には、この一節が引用され、続いて、「と、一戦死者が本書の巻頭でうたっている。ジャングルや熱砂の中をさまよいながら、<だまって、だれもいないところで、ひょんと>たおれた人々の絶望。私たちは、再びこのような手紙が地上の同胞の中から生まれないようにとの悲願をこめて本書を編集した」とある。

 2003年、岩波現代文庫として竹内のアンソロジー「戦死やあわれ」が刊行され、彼の才能と夭折とを惜しむ声が大きくなり、十五年戦争の意味を問い直すこととともに彼の文学的業績を再確認しようとの動きが高まっている。

 ここでは竹内が「映画」を志した若者であったことに光をあてておきたい。宇治山田市に生まれた竹内は1939年に山田中学を卒業するが、彼が進学したのは日本大学芸術学部「映画科」である。中学時代から文学や漫画に傾倒したが、同時に映画にも多大な興味を示し、いつか「映画監督」になりたいと考えるようになっていた。

 どうしてか。小津安二郎の存在があった。小津は山田中学を竹内より18年前に卒業している。その小津は、竹内が12歳のときに『生れてはみたけれど』で、以後『出来ごころ』『浮草物語』と3年連続し、キネマ旬報ベストワンになるという最高最大の達成をして日本を代表する巨匠になっていた。芸術的センス溢れる竹内が、この郷党の先輩映画監督に憧れないはずがない。伊勢市有数の商人である父親からは反対をされながらも、彼はひそかに映画への情熱を燃やし続ける。「(松竹)蒲田の映画なぞ、さうたう見た」と書いており、事実、先輩である小津には「異常なほどの親近感を」もっていたとされる。

 竹内は42年には繰り上げ卒業をして久居三三連隊に入営するが、その頃、未知の伊丹万作に手紙を出し弟子入りを申し出る。伊丹は、『赤西蠣太』(脚本・監督)『無法松の一生』(脚本)その他を遺し、令息が伊丹十三といえば余分な説明は不要だろう。虚弱で臥せりがちな伊丹は、竹内の洒脱で鋭敏な感性に響くものを感じた。兵役の竹内に返事を書き、確認のないままにいつか師弟の関係を結ぶ。伊丹は人なつこいところがあり、橋本忍(シナリオ)が代表的な門下であるが、野上照代(黒澤終生の助手)も会わないままに弟子にしているのである。

 竹内は日記に「師」伊丹万作の消息を書き留めている。「万作サンカラ、ヨクタヨリガアル。ナゼソンナニ呉レルノカ、ワカラナイ」「手紙ヲ、カタカナニシタノハ、万作サンノマネデス」などと書いている。

 次は若くして無念の死を遂げた竹内が、伊丹について書き残した最後の文章である。「寒雷や天地のめぐみ小やみなし…、メズラシク伊丹万作氏カラハガキガ来テ、ソンナ句ガ書イテアッタ。居所ガカワツテイル。…テンテント居所ガカワツテイルガ、ドウ言フモノカ、モノガナシイコトデアルヨウナ気ガシタ」。「モノガナシイ」のはみずからの死への恐れの感情の反映なのだろうか、それとも竹内に遅れることわずか1年半の後に病没する伊丹の死への予感できるはずのない、それでも予感だったのだろうか。

*2004年4月から2006年3月まで毎日新聞三重県版にて掲載した「三重映画ものがたり」を加筆修正したものです。
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