TOP>三重映画さんぽ>三重と映画と歌舞伎とT 7世幸四郎が残した華麗なDNAは三重発 井土 真杉
 日本映画最初のスター「目玉のまっちゃん」こと尾上松之助以来、阪妻、嵐寛、戦後は錦之助、雷蔵、橋蔵、最近では三津五郎、獅堂など、歌舞伎俳優の銀幕での活躍は目ざましいが、それらとは別に歌舞伎の舞台をそのまま映画作品にした例もある。その中で「国宝級」ととりわけ評価が高い2本の作品にいずれも三重県人が大きくかかわっているのが面白い。1本は6世尾上菊五郎の演じる「鏡獅子」(1935)で、われらが小津安二郎の監督による。彼の日記に見られる製作の経緯など、たいへん興味深いのだがここではそれには触れず、もう1本の「勧進帳」について紹介する。

 いまも観られる幻の名舞台
 後にも先にも私は1回だけ母に勧められて映画を観に行ったことがある。たしか高校1年の1950年、津の新世界劇場にかかった「勧進帳」。今は亡きすごい名優たちが出ていて、二度と見られない貴重な映像だから観ておけ、ということだった。生まれて初めて観る歌舞伎の世界は十分理解できたとは言えないまでも、なにか強く心を揺さぶられるものがあってその後私を歌舞伎好きにするきっかけとなった。なにしろこの作品、戦時中の1943年(昭和18)秋、東京の歌舞伎座で演じられた「勧進帳」があまりに評判がいいので急遽松竹が映画に撮ったというもので、義経が6世菊五郎、富樫が15世市村羽左衛門、そして弁慶が7世松本幸四郎というおよそ20世紀に考え得る最高の配剤に加え、四天王に当時海老蔵だった11世団十郎、染五郎だった白鸚まで連なる、まさによだれの出そうな舞台なのだった。いまもビデオやDVDで観ることができるが、映像と音声の古さを補って余りある名演で私は涙なしには観られない。六代目の義経の気品、粋な富樫の朗々たる口跡、それに何といっても生涯に1600回もこの役をつとめたという幸四郎の弁慶はすばらしい。当時すでに73歳だったはずなのにあの身のこなしの鮮やかさと重量感、迫力はどうだろう。

 7世高麗屋の数奇な運命
 ところで母の言葉のなかでもうひとつ耳に残っていたことは「日本一の踊りの名手で大俳優の幸四郎は実は桑名在の出身の三重県人なのよ」ということだった。世襲である歌舞伎名門の役者が地方出身だなんてあり得ないことと私はずっと思っていたが、近年になって現9世幸四郎が先祖の墓参に東員町を訪れたとの新聞記事を読み母が正しかったと知る。
 その後、彼の自伝「松のみどり」などの資料を東員町で拝見したが、実に不思議な話だ。7世幸四郎は1870年(明治3)、当時の員弁郡大長村長深の土木業秦家に生まれ豊吉と命名された(秦豊吉は著名な同名異人あり)。4年後ゆえあって一家は東京に出、南伝馬町というところで菓子屋を営むこととなるのだが、ここで秦家だけでなく後年の(現代までの)日本の演劇界にかかわる大きな「事件」が起きる。
 豊吉が5歳のとき舞踊・藤間流家元の2世勘右衛門が店にきて彼を養子にしたいと親に懇望し、「とにかくこの子を貸してください、縁のもんですから」と無理にもつれて行ったというのだ。
 こうして伊勢人の菓子商の幼児が突然舞踊の道に入り、また11歳で9世団十郎に弟子入りして歌舞伎の厳しい修業を続けることになる。舞踊と演劇における当時最高峰の両師匠に鍛えられて幸四郎の至芸が開花したのであろうが、いかにしごいても才の無い素材は光らない。勘右衛門がどうしてこの商家の五歳児の類まれな可能性を見抜けたのだろうか。その功績はまことに大きい。
 というのもこの7世幸四郎には、明治、大正、昭和3代にわたる豊かな芸暦のほかに特筆すべき大手柄があるから。それはすばらしい子孫を残していることだ。長男が11世団十郎、次男が白鸚、3男が3世松緑とそれぞれ個性の違った名優だったばかりか、その次の代には現在の歌舞伎を代表する団十郎、幸四郎、吉右衛門たち、さらに曾孫には今をときめくエビ様こと海老蔵や染五郎、松緑、女優の松たか子など、一統はまさに輝く星座のようである。もし豊吉が藤間へ養子に行かなかったら、三重県発のこの華麗な芸のDNAは・・・?
 さて、7世幸四郎ゆかりの東員町ではその業績を顕彰し、歌舞伎の文化を地域に伝えようという地道な活動が続いている。1994年には市民グループ「松の会」が発足、総合文化センター内で「松ぼっくり博物館」という資料展示をおこなっているほか、96年から毎年こども歌舞伎の公演もしているそうだ。

*2004年4月から2006年3月まで毎日新聞三重県版にて掲載した「三重映画ものがたり」を加筆修正したものです。

東員町の展示写真 左から7世幸四郎、白鸚、現9世幸四郎、染五郎
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