TOP>三重映画さんぽ>安乗でロケされた『喜びも悲しみも幾歳月』 吉村 英夫
 阿児町の安乗埼灯台から海を見るとほとんどぐるっと360度を見渡すことができ、地球は丸いと実感できる。これだけの遠望が効くところは海の多い県内でもあまりないだろう。♪おいら岬の灯台守は――、灯台守夫婦(佐田啓二、高峰秀子)の25年間にわたる年代記が映画『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年 木下恵介監督作品 松竹)であるが、北から南へと転勤で全国の灯台をまわるなかで、彼等夫婦の幸せの絶頂がこの安乗埼勤務の時期である。戦争も終わり、息子(中村賀津雄)と娘は立派に成長した。灯台記念日にあたる11月1日、子供は父母に日頃の感謝をこめて鳥羽で買ってきたプレゼントをする。

 海をバックに子供二人が自転車に乗って灯台に帰宅してくるシーンが流麗な移動撮影で撮られている。右から左へ人物が流れ、映像が流れる。監督木下恵介の得意の撮影技法であるが、これには意味が込められている。木下にとって人間は流れるものである。いや、時も流れ家族も流れ万物が流れる。木下は万感をこめて自作に「流れ」を描いた。代表作『二十四の瞳』(1954年)では、それを「昨日に続く今日があり、今日に続く明日がある」と言っている。人生は流れ流れて再び元に戻らないからこそ、懸命に生き、燃焼した生を享受しなければならないのである。『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾歳月』で木下が描こうとしたのは、自然の流れは必然であるが、その流れを人の力で歪めることは許されない。だから戦争は自然に逆らう人間の敵なのである。長い戦争に苦しみ傷つき疲弊していた庶民は、戦後、木下の優しい気分に拍手を送り、彼の作品群は国民映画といわれて支持された。

 撮影は1957年の5月に行われたが、時期の設定が11月なので灯台や海に接する野道には造花で造った紅葉が植え込まれ、画面には緑のなかに赤い葉っぱが色を添えている。

 木下監督は、全国の灯台でロケをして歩いたが、三重県ではどの灯台を選ぶかで苦慮したというが、結果的には、これ以上の場所は無理だったろう。佐田啓二が灯台記念日の式典で挨拶をするシーンも撮られているが、日本でも珍しいという四角い灯台を背後にして、彼が演説する傍らには、安乗地区の当時の町会議員や医師夫人など有力者が並び、小学生がエキストラとして参加している。地区の学校は休校になって撮影に協力したという。当時、黒澤明とともに日本一の監督として他を圧していた木下だったから、まるで地区では祭りのような盛りあがった雰囲気になったと当時を知る人たちが懐かしがる。

 木下組は1週間ほど滞在したようだが、実際にカメラを回したのは2日間だったとされる。晴雨はもちろんのこと、雲の動きや、風の状態までも木下監督は、自分の頭に描いた「絵」が眼前にできあがらないとカメラをまわさなかった。日本映画が産業的にもっとも活況を呈するのが翌1958年であるから、日本映画は日の出の勢いの時代だったのである。映画は10月1日に封切られているが、安乗では特別上映会が開かれ、当時はまだ映画館があり、朝昼晩の興行がすべて超満員になったという。

 いま灯台は無人だが、昼間は灯台資料館が開いており、雄大な太平洋を眺めたあと、そこで、映画の安乗埼灯台シーンをビデオで見て往事をしのぶことができる。

 木下恵介監督は1998年に86歳で死去。黒澤明もこの年に鬼籍の人となり、日本映画の「戦後」は終わった。私事になるが「木下恵介論」を上梓したことがあり、木下監督から頂いたハガキが5通手元にある。1993年の年賀状には、80回もの新年を迎えたので、「お年賀も今年で失礼させていただきます」とあり、それが最後になった。やはり時は流れる。月日は百代の過客なのである。

*2004年4月から2006年3月まで毎日新聞三重県版にて掲載した「三重映画ものがたり」を加筆修正したものです。

安乗埼灯台
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